日本馬で唯一の仏ダービー挑戦「ジャムシード事件」
中央がフランスでデビュー。ジャムシード 事件。先日3歳未勝利場のジャックオダモ がフランスで走ったことが少し話題になり ましたが、過去にはさらに珍しい経歴の馬 もいます。なんとJRAに所属してい ながらデビュー戦からしばらくフランスで 走っていたのです。彼はなぜフランスで デビューし、そして日本に戻ってきてどう なったのでしょうか。今回はそんなジャム シード事件について見ていきたいと思い ます。ちなみにバレーの表記は当時のもの を使用しているため、4歳は現在の3歳に 当たります。フランスデビューの中央。 今回見ていくジャムシードは父 シンボリルドルフ、母スイートジェーン。 母シルバーシャークという血闘で1989 年に生まれました。しんボり牧場生産の ボバで謹慎には新山記念とチューリップシ を制したダンツシリウスがいます。父の シンボリルドルフは言わずと知れた無敗の 三カ場で母のスイートジェーンもしんボリ 牧場の生まれで現役時代には準オープン まで行った馬です。そんな両親とも日本の 新ボ牧場で生まれたジャムシードは美ほの 畑山しの者に所属していました。この畑山 しの急者はシンボ牧場総水の和田オーナー と今位の間柄にあった人物でかつて シリウスシンボリの天球騒動があった時に も一時的に預かっていたこともありました 。そんな和田オーナーにとって比較的自由 にやりやすい急者に所属させたのは意図が ありました。それがこのジャムシードで 日本場として海外を制するという野望です 。和田オーナーの宝であるパーソロン シンボリルドルフとつながる地が海外でも 通じることを証明しようと日本場という形 を取りながら長期の海外征を最初から実施 することにしたのです。実際ジャムシード の血闘はパーソロンの2×3という非常に 小一で和田オーナーがいかにパーソロンに かけていたかが分かります。フランスの 名門級からデビュー。フランスの滞在先と して陣営が選んだのはアンドレファーブル 救者でした。彼は1987年から2007 年まで21年合計30回フランスの チャンピオントレーナーとなったフランス を代表する長教士です。滞在していた 1991年にはすでにリーディング トレーナーとなっていたファーブル急者に ジャムシードを預け、そこで調整をして フランスでのデビューに備えました。 そして1991年11月に芝1800mの 未勝利戦でデビューするとそこは6着に 破れますが距離を伸ばした芝2450 の未勝利戦で勝利します。さらに3戦目の オープンでも3着に入り、4戦目の条件で 勝利したことでフランスでオープン入りを 果たします。これにより6月にはフランス ダービーへ挑戦しましたがポリテインの 15着に破れました。それでも8月には オープン競争を連勝し、現在G1に指定さ れているロワイヤルオークショーにも出走 しました。このロワイヤルオークショーは 1985年にシリウスシンボリが出走し3 着に入ったレースで和田オーナーとしても リベンジを果たしたいところでした。ただ そこで旧に破れてしまったことによりここ で一旦フランス遠征をやめることとなり ました。フランスでの通算成績は実践4勝 でそのうちオープンが2勝と当時の日本場 としてはかなり良い結果だったと言えます 。ではこうしてフランスでデビューしある 程度成功した馬が日本へ戻った時どのよう な走りをしたのでしょうか?日本での成績 はまずこの馬は日本に戻った時に畑山九者 から立島の竹国彦へとしました。これは いわば名義だけだった畑山急者から実際に 日本でレースを走るための急者へと変えた ものです。そしてフランスで勝利をしてい たので未勝利ではないのですが、当時の 習得賞金は970万円ほどでした。ただ5 歳の春は1500万下がないためオープン クラスとして扱われました。そうした中で 日本での初戦として選んだのは天皇小春 でした。その年の天王省春は 目ジェロマックが単照1.6倍に指示され たように圧倒的に強いと見られておりフル ゲートになりませんでした。そのため 賞金額が少ないジャムシードでも出走する ことができました。5歳にして初めての 日本でのレースとなりましたがこれまでの 成績から15等建ての8番人気に指示され ます。たださすがにレースのペースやババ などあまりに違う部分が大きかったためか 勝ったライスシャワーから4秒離れた11 着に破れます。そしてこの配線後 1500万下に変入されたため1500万 下を2000走ったものの両方とも4着に 破れました。再びオープンへ。こうしてG 1順オープンと3連敗した後、夏の高級で 500万下にまで下がったジャムシードは 7月の500万下、8月の1000万下と 連勝し、力があることを示しました。 そして再び1500万下に上がると積極的 に長距離レースを走り、6歳1月には格上 挑戦で挑んだG3ダイヤモンドステークス で戦国シルバーの2着に入ります。さらに 3月には準オープンを勝利してオープン 入りを果たし、そこからは中長距離の オープン重傷を走り続けます。ただ掲示板 に入ることはあってもなかなか勝つことは できず、7歳児にダートを走って11着に 破れると障害へと転候します。そしてその 障害デビューとなった未勝利戦で9着に 破れ、現役を引退しました。フランス デビューでダービーまで駒を進め、日本 復帰初戦でのG1最後の障害デビューと ハ乱万丈な競争生活は最終的に29.7勝 という成績で終えました。結局重賞を勝つ ことはできませんでしたが、このくらいの レベルの馬が海外ではどのくらい活躍する のかということを競馬関係者に周知する ことができた貴重なケースだったと言え ます。同じ流れを進んだ馬もちなみにこの ジャムシードの挑戦から7年後、同じよう にフランスでデビューした日本場がいまし た。それがサンデーピクニックです。 サンデーピクニックは父サンデー サイレンス、母アトール、母カーリアンと いう血闘の牝馬です。馬主は吉田照、長京 師は立島の森秀でした。残り長京師所属の ままジャムシードと同じようにアンドレ ファーブル急者に預けました。1998年 にフランスでのデビュー戦を勝利すると2 戦目のG3で3着、3戦目のG3 クレオパトルシで勝利を果たしました。 さらに6月にはイギリスのオークスに出走 すると4着に入りました。その後日本に 戻ると900万下から走り、クイーン ステークス3着などの成績を残しました。 こちらも日本よりフランスの方が成績が 良かったケースとなっており、その頃から 日本のレベルが世界でもトップクラスに あったということが証明されています。 サンデーピクニックはその後繁殖入りする と函館記念を制した当選キャプテンや地方 重賞で活躍した当選アドミラルなどを排出 しています。他にもシンボ牧場がフランス 挑戦した馬たちジャムシードについて色々 調べていたらシンボリ牧場は1980年代 から1990年代にかけて他にも同様の ケースで挑戦させていたことがわかりまし た。例えばボビンスキーという馬が フランスで6000勝の戦績後日本に戻り 中央で4勝しました。またイースタン シンボリはフランスで71勝の戦績後日本 に戻り中央で一勝しました。他にも オリエントルーラー、トワソンドール、 カロラインレディ、シアトルシンボリと いった馬たちがデビュー戦をフランスで 迎え、その後帰国しています。そしてこう した挑戦は2000年代に入っても行われ 、2004年にもシンボリウエストという 馬で同様に藤沢を急者所属の状態で アイルランドでデビューさせるということ をしています。こちらはアイルランドで 一勝した後に名古屋に移籍し、6歳になっ て中央へ復帰、実際までオープンクラスで 走るというハ乱万丈な競争生活でした。 海外が日本場になるのは大変。ではなぜ ジャムシードもサンデーピクニックも日本 で競争登録をして海外演生をしたの でしょうか?その理由はその当時のルール にありました。基本的に日本では海外所属 の基礎場の遺跡を原則許可していません でした。そのため海外所属で海外デビュー していると日本で走らせるのが難しくなる のです。以前特例でバーナスコーニと ゴールデンニックスという馬が米国所属 から多い所属になりましたが、現在はその 特例もなくなっています。そうしたこと から日本場による海外征という形を取る ことでいつでも日本に戻って来られる体制 を作っていたというのが理由のようです。 ただ2024年にはそうした馬も条件つき ながら日本で競争登録ができるようになっ たそうでもしかすると今後海外として走っ た馬が日本に所属するというケースも出て くるかもしれませんね。あなたはジャム シードの挑戦についてどう思いますか? 是非意見や感想をコメント欄にお寄せ ください。最後までご視聴いただき ありがとうございました。またあなたとお 会いできることを楽しみにしていますね。