日本ダービー馬がまさかの地方復帰し、衝撃の結末を迎える物語です。
競馬界の色々な人間関係や裏話、トリビアを紹介していきます!
VOICEVOX:青山龍星
栄光の影に隠された真実日本ダービーの 称号は全ての競争とその関係者が1度は 夢みる競馬会の最高法です。その舞台で かつて牝馬として市場発の影官を手にした 名がいました。しかしその花しい栄光の裏 には決して語られることのなかったも1つ の物語が存在したのです。ラーを制した 英雄が10数年の最月を経てなぜ地方競馬 の小さな競馬場に姿を表したのか。そして その結末とは今回は日本競馬の裏側に潜む 悲劇とそこに生きた人々の執年そして奇跡 の血闘継承の物語をご紹介します。若条 ダービーに挑む昭和初期日本競馬がまだ 冷命期にあった頃一等の牝馬が静かに歴史 の扉を叩こうとしていました。その名は とも後に日本ダービーという栄養を手に することになるこの牝馬は1934年4月 23日千葉県にある長子も塞ご両牧場で 誕生しました。父はメイシュボバ トールヌソル。母はアメリカからの輸入 品馬星とも血闘だけを見ればまさに選ばれ 馬だったのです。この名品にいち早く目を つけたのが北海道箱建てで海運業を営んで いた実業家宮崎慎太郎氏でした。彼は本を 購入すると当時阪神競馬場所属で機種権 長教師として知られていた中島時一の元へ 託します。中島は一目見て日里の素失に 惚れ込み早々にこの馬の目標を東京優 すなわち今の日本ダービーに定めたのです 。しかしそこには1つの大きな壁が 立ちかります。中島と一は関西で調京師 免許を持つ人物でしたが、ダービーが開催 される東京競馬場で被里友を管理するには 関東の免許が必要でした。ならばどうする か。中島は中山競馬場の長教士大久保ふに 馬の管理を託し自らは騎士として関東に 同行するという道を選びます。全ては ダービーで勝つためにこの執年こそが後の 奇跡を生む土台となったのです。 7年3月28日は中山競馬場の新Bまでで ビューを迎えます。3等建てという小頭数 の1戦ながら結果は惜しくも3着。しかし 6日後にはしっかりと勝利を上げさらに自 の優勝戦では当時関東最強と目されていた ハッピーマイト撃破2200mをレコード タイムで駆け抜け関東競馬会にその名を 刻みました。として迎えた東京優すなわち 現在の日本ダービー第6回となるこの レースは昭和12年4月29日に開催され ました。当時世代の大本名は関西所属の ゼネラル実に単照指示率12%という圧倒 的な人気を集めておりはそれにすぐ4番 人気に過ぎませんでした。しかしこの時 中島と木一の胸には確かな自信がありまし た。距離さえ持てばひ友は絶対に勝てる。 レースが始まると友は一気に飛び出し、第 2コーナーで戦頭に立ちます。そこからは まるで逃げ馬のような展開。誰もが皇続に 飲まれるだろうと思ったその時彼女は直線 でも一切足を緩めることなく牝馬サンダー ランドの猛を封じ込めて堂々のゴール1馬 以上の差をつけて日本B発の牝馬制覇と いう異行を成し遂げたのです。この時の タイムは2分33秒3。ややで行われた第 2回ダービーの記録を実に8秒8も更新 するレコードタイムでした。しかも牝馬に よる1着に着フィニッシュというのは ダービー史場でもこの第6回だけの出来事 この年の日里サンダーランドが抜けた存在 であったかを物語っています。勝利の瞬間 ゴール前で鞭を入れた中島の目には涙が 浮かんでいました。彼が調教師として そして騎士としてかけた夢がこの瞬間に 全て報われたのです。後年友と同じく牝馬 としてダービーを制したのは1943年の 栗富士と2007年の魚カ野に遠みつまり 現在に至るまで日本競馬橋の中でたった3 等しか達成していない牝馬のダービー制覇 という奇跡を里友は最初にやってのけたの です。その鉱石は当時の競馬ファンにとっ て衝撃と感動そのものでした。競馬新聞は 女王ボ場をケ散らすと見出しを打ち観客の 間では除血という言葉がさやかれ始めます 。こうして被友は明日ともに日本競馬会の 歴史を変えた女王と指摘をされることと なったのです。伝説の足天磨と呼ばれて 日本ダービーを制した里友はそのまま競馬 会の頂点に君臨し続けると思われていまし た。しかし栄光のすぐ先に待っていたのは 決して平坦な道ではなかったのです。 ダービーの日友はしばしの給養を経て10 月にレースへ復帰しましたところがここで 思わぬ壁が立ち肌かります。日友は当時 呼吸期形の疾刊を発症しており、復帰戦の 特殊班でキャック競争では4着に敗退続く レースでも制裁をかき連敗が続きました。 女王と称えられた馬にとってこの失速は 想像以上に重い現実だったに違いありませ ん。だが里はそこで終わるような馬では ありませんでした。中島とき一もまた彼女 の能力を決して疑うことはありませんでし た。隊調さえ戻ればあの末足は蘇える。 そう信じた中島は友を一時的に関西に戻す ことにしました。彼女が生まれ育った地に 近い場所で西洋を兼ねて調整を図ったの です。そして翌年昭和13年の春友は再び その足に炎を宿していました。5月9日 阪神競馬場で行われた子及び馬線において 道悪の中を堂々と押し切って解消。これが 復活のとなりここから彼女は再び連勝街道 を突き進むことになります。東京へ戻った 日友は春シーズンに3連勝を飾り改めて コバの頂点に立ちます。その中でも特筆す べきは提出後商店での圧勝衝撃でした。 当時の名バフェアモアを相手に大差をつけ ての勝利。観客の間からはまるで別次元の 走りだと驚きの声が漏れたと言います。 さらに秋には72kmという常識外れの 金病を背負いながら後のキ鉄問に勝利、 ついにはダービーはすげ沼との直接対決に もすることなく望み、わずか首で勝利を もぎ取りました。この頃の被友はまさに 完成された名でした。この回進劇を間の 当たりにした人々の中には高年の名評論 靴たしもいました。彼は当時の里友を天マ 空をかけると承じ、その客力を言語に 絶するものと述べています。繰士の強さを 持ってしてもあの時のには勝てなかったの ではないか。その言葉は決して大げでは ありません。まだ牝馬がボ場に勝つことが 稀れとされていた時代友は自らの足でその 常識をこなこなに打ち砕いて見せたのです 。またこの時期は中島と木一にとっても 特別な時期でした。騎士としても長教士と しても最も輝かしい瞬間彼は相葉と共に 全国を転線し共に勝利を重ねて行きます。 里友の背にまたがるその姿はまさに神馬 一体というべきものでした。しかしそんな 日々にも終わりはやってきます。久はその 年の暮れを持って競争生活を終えることと なったのです。最後のレースは牝馬特別。 相手は再びフェアモア激しい叩き合いの末 首で日友が勝利を納めました。その瞬間 スタンドからは惜しみない拍手と完成が 振り注ぎました。こうして久は華麗なる 競争生活にピリオドを打ちました。出走 269中14章ダービー軽焦点などを含む 数々の重症勝利。その実績は後の競馬市に おいても牝馬としては軍を抜くものでした 。だがこの時の誰もが知る吉しもありませ んでした。里の本当の苦難が実はこの先に 待ち構えていたということ。まさかの復帰 。地方競馬へ競争としての栄光の日々を 駆け抜けた日はその後宮崎慎太郎氏の所有 のまま北海どうかは超で繁殖生活に入り ます。場としての実績から繁殖牝馬として の期待も大きく初みや友にこうさ友といっ た両結場たちが次々に誕生します。いずれ も当時人気を誇っていたシボバセフトの サクでした。しかし現実は厳しいものでし た。被友のサクたちはなかなか結果を出せ ず次第に名品イコール名繁殖とは限らない という声も出始めます。さらに悪いことに 2年連続の不事隊そこへ追い打ちをかける ように第5師として宿していたステーツ マンの交流してしまったという情報も 伝わってきます。この頃日本は戦後の大 混乱のただ中にありました農地改革が進め られ多くの地主が土地を手放さざる終え ない状況に陥ります。函館で海運業を営ん でいた宮崎氏もその例外ではありません でした。競馬という贅沢な趣味を支える 基盤が次第に崩れ始めていたのです。資産 の多くを失い警も思うように行かなくなっ ていた宮崎市友の慶王を続けるにも次第に 限界が見え始めます。そんな中ある日崎氏 の元に1本の打信が届きます。被友をもう 1度競争として走らせませんか?打信をし たのは当時の地方競馬関係者でした。 モ向きの理由は繁殖再会に向けた原料 トレーニングの一環というものでした。 確かに繁殖牝馬に脂肪がつきすぎると受態 に悪影響が出るというのは競馬会では広く 知られた事実です。しかしそれがあくまで 建前に過ぎないことは宮崎氏も痛いほど 理解していました。戦後もない日本では 軍馬や濃厚の数が圧倒的に不足していまし た。特に競争の供給不足は深刻で引退場や 年を馬でさえ貴重な戦力として現場に戻さ れることも珍しくなかったのです。 ダービーが地方で走るそんな異常な話が 現実になろうとしていました。宮崎氏は 葛藤します。かつて栄光を明ち合った馬を 再び競争として走らせるという行為にどれ だけの意味があるのか。しかし現実は非常 でした。自身の再生状況を考えれば慶用を 続けることは困難ならばせめて少しでも 馬自身の体を動かしながら生かす道をそう 自分に生聞かせるように宮崎氏はその提案 を受け入れたのです。こうして昭和24年 秋里は実に12年ぶりとなる競争生活へと 再び足を踏み入れました。年齢は数えで 16歳。年代の基準で言えば引退して何年 も経過した高齢が再びレースに出るなど 考えられない事態です。送り込まれたのは 神奈川県にあった戸塚競馬場当時はまだ 地方競馬の制度も整っておらず施設も粗末 なものばかりの場望もかつての華やかな 中央競馬とは比べ物にならない環境でした 。だがそれでも彼女は走りました。10月 末からわずか2週間余りの間に5000を こなすというハードなスケジュール。その 中で2勝を上げるという結果を残したの です。16歳という年齢を考えればこれは 脅異的な快墟でありまさに魂の走りでした 。11月17日千葉県の柏競馬場で勝利を 上げた日は自戦に向けて浦和競馬場へと 向かいます。ここでもう一生関係者の期待 が高まる中事件は突然起こりました。11 月19日、調京を終えた日里が場望に戻る 途中、突如として後足から崩れるように 倒れたのです。その場にいた救務員たちが 慌てて駆け寄りますが、彼女はすでに意識 を失っていました。苦しむ様子もなく、 静かに穏やかに地面へと沈んでいった日と も推定されたシーンは心臓麻痺ダービーを 制したメイ品はその命を地方競馬の片隅で ひっそりと負えたのです。その場には かつて宮崎牧場に務めていた中島時一の 出しこもりその正義と宮崎新太郎の息子 正義が立ち合っていました。彼らは涙 ながらに里の遺体により添いその大毛の 一部を宮崎氏の元へ送り届けたと言います 。栄光の象徴として称えられた里とも しかしその最後はあまりにも静かであまり にも切ないものでした。金馬として初めて のダービー制覇という禁事党を打ち立て ながら晩年は無料をして走らされ、地方の 競馬場で息を引き取る。これは日本競馬市 におけるも1つの現実でした。里友という 名を聞いた時、人々の心に浮かぶのは 果たして栄光か、あるいは悲劇か。その問 に簡単に答えを出すことはできません けれども、確かなのはこの悲しき結末こそ が後に語り継がれる希望へとつがる始まり だったのです。流れた奇跡血は死なず友の 市は競馬会に静かな波紋を広げました。誰 もが認める名品でありながらその最後は あまりに寂しいものでした。中方競馬の 栄光から地方競馬の片隅へそれはダービー 場のイメージを根底から揺がす出来事だっ たのです。しかしこの悲劇的な収幕は実は ある奇跡の始まりでもありました。ともに は数のサクがいましたが、その中で唯一の 牝馬として繁殖に残されたのがブリュー リボンでした。父ステツマン母さともこの 地を引く唯一の牝馬である彼女に日本系 馬カの夢は託されることになります。とは いえその道は決して純風満パではありませ んでした。流もまた繁殖成績に恵まれず 産んだ小馬のほとんどが地方や障害競争で 走るような地味な存在ばかり明の地と称え られたその警府も時代の波に埋もれようと していました。さらに決定的だったのが第 6氏トップの運命です。政治家田中正司に 勾配され、繁殖生活を送っていたトップは 黒い霧事件による田中市の正解失客により 所有権が移り、行方も不透明にこうして里 の地は消滅寸前に追い込まれたのです。 もしここで誰かが手を差し伸べなければ 日本競馬の歴史にな刻んだあの名品の地は 静かに途えていたかもしれません。しかし 運命はもう1度奇跡を準備していました。 7年、当時まだ新身経営の若手馬主だった 内村正典氏は一等の地味な牝馬に目を止め ます。名前は久の暇子にあたる一とその馬 に彼は東海区と名付けました。東海区院は 地方競馬で細ボと走っていた血統中央で6 勝を上げるなど意外な粘りを見せました。 その活躍に内村市は興味を持ち決闘表を 丹念に辿っていくうちに早祖母が里友で あることを知ります。日本ダービーを制し たユーツの牝馬。その地がまだ生きていた この発見は内村市にとって運命的な出来事 となりました。彼は心に誓います。この 血統からもう1度ダービー場を出す。をお 決意した彼は の子孫にあたる牝馬を次々と後輩しその地 を守り続けていったのです。時には血闘を 託くと野されることもありました。誰も 見向きもしない執年部格求める姿勢に首を かげるものもいました。しかし内村市は 自分だけは信じていたのです。この地には まだ光が残っている。その努力はやがて 大輪の花を咲かせます。 4年、里から数えて5代目の牝馬東海 ローマンがついにオークスを制覇。牝馬 クラシックを再び手にしたことで里の血闘 はようやく厨房の大部隊に帰りざいたの です。だが奇跡はそれだけにとまりません でした。東海マンの追いにあたる一等 のば場。その名は東海帝王。その足には 確かに火里の魂が宿っていました。 デビューから4面称でさを制し、続く日本 ダービーでは父ボリルドルフに続く親子2 台制覇を達成。さらに1993年の有馬 記念では1年ぶりの復帰戦という常識破り のローテーションでグランプリ制覇を 果たすなどファンの記憶に残る名となった のです。1995年東海帝王は検証に戦出 ともに伝説の存在となりました。として その裏には血闘の火を絶さぬ用度力を続け たある男の存在があったことを誰もが知る ようになっていったのです。その後も里の 地は地味ながらも確実に行き続けました。 東海王大座がアルゼンチ教和国杯を制し 東海太郎が新潟記念を勝利表部隊では語ら れることの少なくなった里者の名はこうし て静かに確実に日本競馬の決脈として 受け継がれていったのです。名の地はたえ 地に不しても決して耐えることはない。 それを証明したのがこの日里という一等で あり、それを信じ守り抜いたのが内村正典 という1人の馬主だったのです。その姿に 私たちは思わず胸を打たれます。競馬とは 単なる勝ち負けではなく地と人のドラマで あるということを改めて思い知らされるの です。メイヒ友。その名は永遠に里という 名前を今どれほどの競馬ファンが知って いるでしょうか?メイヒクリ富士や名ープ インパクトに比べると彼女の存在は少々 かんで見えるかもしれません。しかし昭和 初期という時代において日本ダービーを 牝馬として初めて制しいくの名馬としのぎ を削りそして最後まで走り続けたその姿は まさに魂の競争と呼ぶにふさわしいもの でした。七トルぬソル母星友という両結に 生まれ運命に導かれるようにして出会った 中島時一という男の手によって開化した 才能優春大競争という最高峰の舞台で自ら の実力でボバたちを打ちまし牝馬として 歴史の扉をこじ明けた里ともその異業は 時代を超えて語り継がれるべき日本競馬の 原点と言えるのではないでしょうか。 しかし彼女の物語は栄光だけでは終わり ませんでした。引退後の繁殖生活は決して 順調ではなく、さらには戦後の混乱機に 突入。経済的区教の中、再び競争として 復帰を強いられた彼女は地方競馬という 名なき部隊でその障害を閉じることになり ます。16歳という高齢で走らされた末の 突然の死。それはあまりにも残酷であまり にも静かな幕でした。華やかな中央の ターフを駆け抜けた名が誰にも見送られず に散っていったのです。だが日友はそこで 終わりではなかったのです。彼女の死護も 唯一の子された牝馬流リボンによって 過ろじて繋がった地そしてその日を たやすまいと立ち上がった無名の馬主内村 正典の周年誰も注目しなかったこの系統に ただ1人未来を見た男の情熱が再び地を 蘇らせたのです。その執年が産んだ奇跡、 それが名東海帝王の誕生でしたダービーが 再びダービーバを生産生む。しかもかつて の牝馬ダービーの力。これほど ドラマチックな血闘の継承が果たして他に あるでしょうか?日本競馬はただ早い馬を 育てるだけの世界ではありません。そこに は地と情、夢と絶望、そして再生と希望と いう壮大な人間のドラマが生きづいてい ます。友の物語はその象徴とも言える存在 です。一等の牝馬が歩んだ奇跡。それは 日本競馬という部隊に深く刻み込まれた魂 の記憶なのです。一等の牝馬が日本競馬の 歴史を塗り換え、やがて時代の波に飲まれ ながらも静かにしかし確かにその地を未来 へとついでいきました。里という存在は ただの名ではありません。彼女は栄光と 悲劇の狭で懸命に生き抜いた命の継承者 だったのです。その姿は私たちに問いかけ ます。真の価値とは何か?誇りとは何か? そして血が紡いだ奇跡の物語は今も私たち の胸に熱く行き続けているのです。皆さん はどのように感じましたか?是非コメント 欄でご意見をお聞かせください。次回も また皆さんと一緒に競馬について掘り下げ ていきたいと思いますので、高評価と チャンネル登録をよろしくお願いします。 最後までご視聴いただきありがとうござい ました。次回の動画でまたお会いし ましょう。
確か、トウカイクイ―ンの母だったかトウカイミドリが病気で絶滅寸前で奇跡的に回復してトウカイクイ―ンを出産そしてトウカイロ―マンが生まれ内村オーナ―の意向により、ロ―マンの現役生活を延長させ、ルドルフの交配は、ロ―マンの妹、競走馬には、なれなかった繁殖牝馬トウカイナチュラルにしたんですよね。そして、名馬トウカイテイオ―が誕生するんですけど、まさに競馬のロマンを感じます。昭和の競馬は、面白かったな…
オペックホースの話かと思った
胸がいっぱいになりました
そのトウカイテイオーの唯一の後継種牡馬クワイトファインが先日亡くなりました。産駒の中に何頭か牡馬がいるようですが、この奇跡の血統も風前の灯火です。
今回も日本競馬の素晴らしい歴史を紹介して頂き、ありがとうございます。自分はダービースタリオン&ウイニングポストから競馬に興味を持ったのですが、いざ馬券購入をしてみると中々的中せず所詮血統なんて・・・と思った時期もありました。かなり昔の話ですが、ステージチャンプという牡馬に惚れ込んだ事があり、クラシック全て本命にしてました。菊花賞をビワハヤヒデとの1点買いで的中した時は涙と鼻血が出ました。ライスシャワー&ステージチャンプの時も1点買いだったので涙した事を思い出しました。最近は血統って大事だよなぁ~て(特にダート)思ってます。
今回も素晴らしい動画ありがとうございました。かなり長文になってしまい申し訳ありません。
次の動画も楽しみにしてます。